私の父はバクロ(牛売り)をしていました。 私が3歳の頃、仔牛を売りに行った父が、仔牛と紀州犬を交換して帰ってきました。 それが、紀州犬との出会いでした。 それから、色々な犬種の犬が家にいましたが、どうしても自分で紀州犬を飼いたいと思うようになりました。 自分で世話を出来る様になるまで飼うことを許されなかった私がやっと紀州犬を飼うことができたのは、18歳になった時です。 ペットショップで買った紀州犬を展覧会があると聞き、出陳してみました。結果は最悪のものとなりました。 負けず嫌いに火が付き、愛犬の友を読み漁り、紀州犬専門犬舎を見つけ、鈴鹿江藤犬舎に行きました。 7,8匹いた仔犬の中で、江藤忍さんが好きなのを持って行っていいよ!と言って下さり、、餌をばらまき、1番喰いの良い雌の子犬を購入してきました。その雌犬峰雪姫号が 昭和61年4月、第25回紀保全国展にて内閣総理大臣賞を受賞し、その後、購入した峰雪姫号の父犬伊勢誉号が同年日保第84回全国展にて、成犬組優良2席、成犬賞を受賞したのが、若干24歳の時でした。 私の犬飼の歴史が始まりました。 私が約32年間に自分の目で見た名犬と言われる犬達をご紹介いたします。それから、
中54-5005号
中58−1242
本犬は幼時より構成すぐれ、気性の良さと相まって、立木に繋いでおくだけでも
美しい立姿を示していた。従って早くから注目されていたが、期待通りの
スピード出世であった。
全国展には連続して六回出陳されているが、若犬時代は一組、二組ともに一席、
壮犬組では二席と一席、そして成犬組にはいってすぐで二席となり、そして2回目には
文部大臣賞に輝いたが、この時はまだ三歳半という若さであった。
北岡氏としては、市力号で大臣賞を獲得してから僅か一年半で、今度は直子で再び
大臣賞を獲得するという偉業を達成したことになる。
父犬第三大貴号は大力号の孫であり、母犬葵一姫号は紀伊号の直子である。
従って血液的には紀伊号が中心になっているが、新宮の市山号や関東の第二理号なごの
血液をも含んでいる。
本犬は若犬時代から全国展に連続九回出陳、そして毎回入賞(若犬賞二回、
壮犬賞二回、成犬賞五回)という記録をもっている。勿論若犬時代からその素質は
評価されていたが年と共にその良さに磨きがかかり、九回目に文部大臣賞を獲得した。
この時四歳11ケ月、正に完成されたという感じであった。本犬の素質の良さもさることながら、
飼育者北岡氏の、平素の管理の素晴らしさは、相当のもので、勉強させていただきました。
紀州犬で過去春秋連続して大臣賞を受賞したのは本犬だけである。
父犬は鉄雪号、母犬は第二理号や大秀号などの血液を受けた香澄号である。
一胎子六頭の中で、子犬のときからこの犬だけが群を抜いていたというが、
若犬ー壮犬ー成犬を通じて、支部展、全国展ともに、常に一席であったと記憶している。
やや小柄ながら体型、顔貌、被毛ともによく整い、リング態度も雌犬として最高のものであった。
作出母胎としての成績は本犬自身の成績に比べると少し淋しいが、
勝秀号との交配で勝子号(全国展成犬賞)綸花号(全国展若犬賞)などだしている。
名犬写真館